column..........08/07/06/05
□2010.07.22top

少し前、車を運転していて驚くべき事実に気が付いた。なんと出くわす車のほとんどが白か黒かあるいはシルバーか、その3種類ではないか!あまりの驚きに慌てて他の色を探したが、たまに出会う他の色達は紺色が多少優勢か?といった程度でほとんど横並び状態。赤とかモスグリーンとか、まれに黄色とか、とりあえず異端児か突然変異。その後、歩きながらもやっぱり気になって駐車場とか覗いてみると、やっぱりそこにも白黒シルバーのオンパレード。ぼんやりと日本の車は白が多いとは気が付いていたが、モノトーン系でまとめてしまえば、僕の感覚では10台中9台かあるいはそれ以上がモノトーン系だろう。
この怪奇現象を、よくいわれる日本人の中流意識で説明することは可能だろうけど、僕が思うに日本の全くコントロールされていないムチャクチャな街の風景、街の色を思えばこのくらいストイックな色使いでちょうどよかったのではないだろうか。お願いだからこれ以上街に無秩序かつ無配慮な色を反乱させないでくれ!と僕は言いたい(書きたい)。
先日、東京で竣工を迎えた住宅の撮影を行っていて、少しだけいやな気持ちになったことがある。外観写真を撮ろうと思ったらお隣の工事現場には真っ青な養生ネット、手前には真っ赤な自動販売機、そして敷地の真正面にはなんとぶっちぎりの水色とオレンジに塗り分けられたミラーと街灯。いままで散々現場に通っていながら、この日ほど周囲の環境が浮き彫りになって、その存在自体が醜く思えたことはなかった。情けなかった。でもこれが日本です。素敵です。

□2010.04.23top

あるメーカーによる「ビールと間違えるほどのうまさ」というコピーはテレビや電車でよく見かけますが、ほとんどビールの味が分からない僕にとっては味覚という感覚器官の普遍性についていつも考え込んでしまうきっかけになる。
おそらく味は文化だ。文化は地域に根ざしたものであって、異なる地域に発生した文化は「違う」のであって「善し悪し」あるいは「優れている、遅れている」はない。ということは、味に「違い」はあっても「うまい、まずい」はないことになってしまう。たしかに他文化の味は、場合によっては我々にとってとても受け入れがたい味をしていることがあるから、議論の余地は無いように思える。一方でよりうまいものを求める傾向は確かにすべての文化に共通してある様に思えるからだんだん話がややこしくなる。つまりある文化圏の中で、歴然とうまいとまずいはある様に思える。よりおいしい料理を求めて食材や料理法が長い年月の中で改良を繰り返されて現在に至る食文化を思えば、その流れは常に「よりおいしく」を指向していることは間違いないから。
例えばビールの味が分からない僕でも、旨いワインとまずいワインはあるし、過去の経験からその感覚に対して周囲に大きな差異がないことも分かっている。僕が旨いものはだいたい周囲の人も旨いと言う。根っこの部分では旨いまずいの存在しない単なる「味」あるいは「味覚器官による情報」が長い年月の中で、それぞれの文化圏において「旨い」を目指して体質の変化が起き、「情報の重み付け」が生まれる、ということなのか。それとも単なる「慣れ」くらいのことなのか。ドイツで生まれ育った人が何年、あるいは何代日本に住めば、日本のビールを「旨い」と言える様になるか、統計でもとれば分かるかな。

□2010.02.10top

少し前、出張で新幹線に乗っているとき、まぶしい朝日に照らされた真っ白で完璧な姿の富士山を右手に見ながら静岡出身のスタッフが一言「富士山ってどこから富士山なのでしょうか・・・」とつぶやいた。寝ぼけた頭には少しヘビーな程にこれは深い、と思った。瞬時に幾つかのことが思い浮かび、例えば建築における段差と階段の境目は?とか、カップラーメンの容器と数分後にゴミと呼ばれるその容器の境界線は?とか、口と言われる部位はどこからどこまでか、など、そんな話をしていた。共通して言えるのは、僕たちをとりまく名前という便利な決め事は、実は多くの場合、物として存在していないとても抽象的な意味でしかないということ。
例えば、最初の例でいう富士山。富士山は存在していると思っている方が多いと思いますが、僕は「富士山」など存在していないと思います。富士山とは象徴です。意味と言い換えてもよいです。どこからかふくらみはじめ、あるところを頂点にしてまた引っ込みはじめるカタチの在り方を説明しているに過ぎないため、それは物ではなくて意味なのです。ゴミとは人間が勝手につけた意味であって物の説明は一切していないことは分かり易い例です。結局のところゴミの素材は酸化しはじめた細胞であったり、ポリエチレンであったり、木材かもしれません。ゴミという物質は存在していません。使っていた物がある瞬間にゴミに変わることがとても面白く、興味深いのがカップラーメンの容器です。意味の転倒といいますか、人の意識は何でも作り出すものだなとつくづく感心してしまいます。
ということで、毎度のお話ですが、住宅にリビングなど無いのです。ダイニングも同じく存在しません。なぜそう断言できるのか、もうお分かりかと思います。存在しないものは設計出来ませんので、私の設計図書にはリビングもダイニングもありません。そんなことばかりクライアントに言い続けて何年も経ちましたが・・・・。

□2009.12.28top

あっという間の1年でした。acaaは今日で仕事納めです。皆様良いお年をお迎え下さい。そしてあけましておめでとうございます。2010年もどうぞ宜しくお願いいたします。
漠然と1年を振り返ると月日の流れるのがとても早く感じられます。でも一つ一つの仕事を見つめ直すととても長く、楽しいことや苦しいことがあったことも分かってきます。特に一緒に行動しているスタッフにとっては、毎日が大変でとても長く感じられる日や月もあったろうと思います。ご苦労様、そしてありがとうと言ってあげたいと思います。
時間は伸びたり縮んだりするものです。相対性理論のことではありません。そのあやふやな感じが人間である証拠です。ですので、今年のコラムは不定期になってしまいました。気が付けば想像以上に時間が経っていたりして更新がおざなりになってしまったことが原因です。ですので2010年はまずそこのところ、きちんとやろうと思っています。
継続中のプロジェクトのクライアントの皆様には引き続きお世話になります。どうぞ宜しくお願いいたします!

□2009.10.13top

季刊誌の取材のため、数ヶ月ぶりに岐阜のRSH:3に訪問してきました。今回は中原大久保坂口編集室の坂口さんと昨年まで新建築住宅特集の編集長であった豊田さんに来て頂き、竣工後もうすぐ4年経つ住宅をみていただきました。いつも思うのですが、取材を受ける住宅の施主には毎度ご迷惑をかけてばかりで本当に申し訳ありません。にもかかわらず、RSH:3のクライアントは訪問するたびに明るく大きな声で大歓迎して頂き、ついでに食べきれないほどの食事やタイミングがよければお野菜や山菜などのお土産まで持ち帰れないほどいただくことがあります。ちょっと前には、日の出前の早朝の撮影に応じて頂いたこともありました。そもそも、そういったお客をもてなすことが趣味のクライアントですから、いつ行ってもとても綺麗に整理清掃され、建物への愛着を強く感じます。
先月、ある現場が終わるときにスタッフが涙ぐむシーンがありました。クライアントを含め現場に関わった全ての人が力を合わせてたった1件の住宅を完成させることの大変さと達成感を考えると私もまったく同じ感覚で、その姿をみてとても嬉しくなったのです。クライアントとの出会いはいつも瞬間です。でもその瞬間が縁として昇華し、クライアントや我々が生きている限り住宅も在り続けるのだなと思います。現在継続中のプロジェクトを含め、acaaに依頼いただくクライアントがいること自体、私は未だに奇跡の様に感じることがあります。常に感謝の気持ちを忘れずに・・・。

□2009.08.11top

ここ数年で建築をとりまくいろんなことに変化が起こった。意味のある変化とそうでもない変化とあって、我々はただそれに翻弄されている。だからこれをチャンスにして物事をきちんと考え直す必要があるのかもしれない。資格制度もいろんな変化がはじまりつつある。そもそも資格は必要なのか、といった様なへんてこな発想が生まれるほどに、僕は資格を単なる資格としか考えてこなかった。実態の伴わない単なる飾り。アトリエ事務所で働いているとよけいにそう感じていた。要は実力だ、と。形骸化してしまったその制度をきちんと意味のあるものにしていこう、という意味の資格制度改革だから、その意味ではむしろ良かったかもしれない。 そういえば電車の吊り広告に「資格に強い学校」「資格取得のプロがいる・・」というキャッチコピーを見てぶったまげた。英会話教室か何かの宣伝だったと思うが、その場合の資格とは英検かな。英検取得のプロ?取得が目的?考えはじめたら頭がぐるぐる回りそうになって、やめた。資格を取得するのは受験者なのに、一方で取得させるプロがいるってことは、つまり誰が取得することになるのか。これはなかなか深い。取得させてもらうことを目的として学校に通った学生は、その資格でもって一体何をするのか。取得させるプロは、英会話の先生ではなくて資格を取得させる先生だから、ほんとに英語が上手なのか?という疑問も湧いてくる。ほんとに取得させる事のプロなら、その英語力をもっと別なことに役立てた方が世の中きっと幸せになるだろうに・・・。建築士の学校もきっと似た様なものかなと思うから出来れば独学でがんばってほしい。苦労してがんばったことは必ず力になるから。

□2009.07.03top

 車に乗っていてちょっと古い渡辺香津美(ジャズギタリスト)のCDを聴きながらふと思ったことがある。このメロディーはどこから来たのだろう。例えば歌詞があれば、もしかしたら歌詞が直接的に意味を持ってそこからある種の映像やメロディーに似たイマジネーションが広がっていくチャンスがある。けれど、今聴いているのは単なるメロディーでしかなく、そのもの自体は何の意味も説明も持たない。例えば、ジャズやフュージョンといったカテゴリの音楽にも当たり前の様に1曲ずつ「タイトル」がついているけど、そのタイトルは一体どうしてその「タイトル」になったのか分からなくて随分悩むこともあるが、結局はそういったことだなと思った。それは作曲者のイメージの問題、と片づけてしまえばそれまでだが、そのとてつもなく深いイマジネーションの世界は、僕には想像もつかないから、そのメロディーがどこからともなく生まれてくる瞬間というのが奇跡的とでも言うか、やはり想像がつかないだけあって、ことばで表現する事が出来ないくらいに感動的だなと思う。天才とはきっとそういった瞬間を味わえるひとのことを言うのだろう。残念ながら僕にはそんな才能が無いから、これからつくるべき「カタチ」の源泉を求めて、思想と経験の波の中を溺れそうになりながら泳いでいる。何も考えず、ふと、一つのカタチ、一つの立ち方が目の前に浮かんできたらどんなに素晴らしいだろう!

□2009.03.24top

 先日、建築家室伏次郎さんの大学退官に伴う最終講義を拝聴するため、神奈川大学へ行ってきた。彼の創作してきた建築の解説と同時に、彼がしゃべった言葉の中で特に印象に残った言葉がある。「私は学者ではありませんから」この言葉の意味をどのくらいの学生が深く、そして重く受け止めているだろう。世間は物事に対する説明責任と責任回避に走り回り、いつも後ろを向いて走っている。学者ははたして前を向いているだろうか。仮説を立て、立証し、発表する。立証出来ないことはやるだろうか。あるいは可能性の低いことは?いい方を変えれば立証出来ることをやるのが学者か?
責任問題。我々は建築家であり、造ることでのみ、唯一その空間でありカタチをクライアントにお見せすることが可能となる。造ることはチャレンジであり、開拓である。常に前を向いてそこにある目標へ一歩でも近づくため、我々はジャンプする。つくることは責任をとることでもある。責任をとるためにつくっているのではないので、我々はひたすら走る。前を向いて走る。
説明可能なこと。それは既にある事実であり、可能性の扉を開いてはいない。だから建築の可能性を信じてジャンプする。そこにある真実は、建物が完成してはじめて見えてくる空間であり、クライアントの生活である。他には何もなく、言葉は既に意味を失っているだろう。私はやはり造っていくことしか出来ない人間だとつくづく最近思う。室伏さんの様に、つくる精神と構築する勇気を、私について来てくれるスタッフに伝えたい。

□2009.02.19top

 普段あまりニュースは見たり聞いたりしない方だが、先日たまたま朝のFM放送を聴いていたら「発展途上国」という言葉が耳に飛び込んできて、自分でも不思議なくらいに、その言葉が気になった。あれっと思ったけど、使用禁止にはなっていなくて、使用されなくなったのは「後進国」だったから一安心、というか、ダメな言葉をNHKが使う訳ない。あたりまえか、などとぶつぶつ考えるのは勝手として、そのくらい、私は普段ニュースをまじめに見たり聞いたりしていない証拠。でも、「発展途上」である「国」であることは分かるが、経済や科学技術の「発展」が遅れているという誰もが疑わないその意味を考えだしたら寝むれなくなった。つまり、我々はその「発展」という言葉に目指すべき理想的な未来という意味があることを理解し、だから「発展」していないものは心のどこかでダメだと思っている。さらに、「途上」という言葉が気になってきた。「途上」というからには、我々は不可逆的にある一つのベクトルに向かって進むべき存在であり、それをやはり歓迎していることになる。静止することはダメなのか。後退などもっての外か。とんでもない。ばかばかしくて書くのもいやだが、少なくとも私は経済や科学技術の発展など期待していないし、ましてやそれが不可逆的に進むことが理想であって、さらにその結果、人類皆幸せになるであろう、なんてよっぽど脳天気か無知でなければ考えることは不可能だろうと思っている。が、ニュースキャスターは今日も(たぶん)平然として「発展途上国」と読むだろう。経済大国は分かる。なら経済小国でもいいじゃないか。大小は物事の在り様そのままだから誰も否定はしない。なぜ「発展」なのか。なぜ「途上」なのか。暗黙のうちに、我々はある一つのブラックホールへと導かれているのではないか。本当に怖い。だから地球温暖化問題なのだ。解決する訳がない。

□2008.12.02top

 へんてこな日本語が氾濫するこのご時世、電車や車に乗っていて相も変わらずいやになります。こりもせず、またまたやります。第三弾。
其の一、「知らない街に泊まるのは、おじさんだって不安になる」、どうでしょうか。まさにタイムリーな吊り広告だから、見覚えのある方も大勢いらっしゃるのでは?不審に思わなかったら、やばいですよ。其の二、「新しいシーフードの新提案」、読んだ瞬間に何だこりゃ、ってスタッフと一緒に笑ってしまった。ちょっと方向性を変えて、怖いキャッチコピーを発見しました。「昨日のすごいを今日の普通に」、家電か何かのメーカーの広告。まぁ、意地悪に考えなければ意味は分かるけど、いくらなんでも、それはあんまりでしょって感じです。良かれと思って書いたのでしょうが、これはかなりやばそう。物事そんなに消耗品扱いでいいの?自ら泥沼に足を踏み入れている様にも思えます。私なら「昨日の普通を今日のすごいに」と言い直します。目の前に氾濫する「物」や「情報」を我々はほとんど手つかずのまま放置している状況です。それが日常であって、大人の言う「常識」って厄介なやつに成り下がってしまって、挙げ句の果てに「何か新しいものは?」と新奇さにそのフラストレーションのはけ口を求めたりするものです。そんなヒマがあったら、さっさと身の回りに転がっている「常識」とおもわれている物事にきちんと目を向けてみてはどうか。目の前にある物事に、感動し、おののいてみる。そこから全てが始まる様な気がする。クリエイティブな生き方とは、新奇な物の発見ではなく、誰も気が付かない普通の中に自分の視点を見いだす事から始まる。だからよけいに、ばかばかしいキャッチコピーや、そもそも文章になっていないゴミの様な広告には腹が立って仕方ない。

□2008.08.12top

 7月の終わりの頃、東京デザイナー学院の学生を私の事務所に呼んで課題のプレゼンテーションを行った。はっきり言ってしまえば、課題が授業内では完成しなかったために、採点を1週先延ばしにしてあげただけのことだが。狭い事務所に大きな模型が複数並んだ風景を見ていてあらためて思った。やっぱり建築には地形が必要だな、と。
その課題は緩やかな傾斜のある別荘地が立地となっているから、学生は建築本体も勿論だが、傾斜した地形の模型も当然ながらつくらなければならない。地形があって建築がある。建築は水平と垂直が原則となっているから平坦な敷地の方が作るには何かと都合がいいのだが、それがとても平凡に見えてくることがある。平凡な敷地に平凡な建物。それが日本の風景。都市化していく過程で、人は便利なものを追求してしまうものだから、傾斜よりは平坦を。へんてこなカタチ(自然発生的)よりは四角(計画的)を、善しとする癖がある。何かを構想するとき、実はそういった人が造り上げた成果物が邪魔をすることがたくさんあって、たとえそこが平坦で四角い敷地だったとしても、僕はふわっと夢を見る様な気持ちで幼年期から蓄積された心象風景をもとに、スケッチを進めていきたい。

□2008.06.10top

 神奈川県立近代美術館での絵画展は葉山館と鎌倉館の両方で行われていて、前回の葉山館に続いて鎌倉館にも行ってきました。久しぶりの鎌倉館だったので、蓮池に面したピロティ空間に列柱の影と蓮池の光が反射するのを見たかったのですが、生憎の小雨模様。しとしと雨の降る蓮池ははじめてでしたので、それはそれでいいものです。ところで、前回は古賀春江氏の絵が見たくて行ったのに対して、今回は特別に目的とした作家がいたわけではなかったので、かえって多くの絵をじっくり味わう事が出来ました。とりわけ、今回の絵画展で強く惹かれた本田綿吉郎氏の中禅寺湖夜景と中村不折氏の根岸御行松付近夜景については、油絵の暗闇表現の魅力にはじめて気が付いた様な気がしました。暗闇を絵画で表現する、ということはもしかしたら私は今まで意識した事がありません。日頃建築の空間に向かいながら暗闇をどうやってつくるか、と考えるのですが、絵で暗闇が表現出来るなんて、どう考えても私の下手な技術では出来ないから、正直驚いた。暗闇は見えない。見えない中に何かが僅かに見えて、その向こうにある何かはただ想像するしかないのですが、その空間的な奥行き感は異状なまでの臨場感があり、美しいとか感動とか、そんなことではなくて、吸い込まれる様な感覚です。ただ吸い込まれて動けなくなる、そんな印象を強く持ちました。すごい!
そういえば、昨日の夕方、段々に暗くなるそんな時間に、ちょっと暇だったので村治佳織のCDを聴いていたら、武満徹のギターの為に作曲した「すべては薄明のなかに」というのがあって、何とも言い難い、茫洋とした雰囲気の曲ですが、移ろう暗闇と明るさの中に、ふわふわと漂う印象がとても気持ちよく、「暗闇の中の存在」ということを何となく考えていました。見えないことと存在しないことは明らかに違う。「すべては薄明のなかに」。暗闇から発想しないとすれば、きっとそういうことかな。武満の考えていた音楽的空間はいったいどんな色をしていたのだろうか。

□2008.05.02top

 久しぶりに美術館に行ってきた。神奈川県立近代美術館のウェブにふらっと立ち寄ったら、とても懐かしい絵画が表示されていて、あっと思った。これは絶対に行かなければ。その絵は古賀春江さんが1930年に描いたもので「窓外の化粧」という。現実的に「在りそう」な風景を積み重ねていって、でも実はどう解釈しても不思議で絶対にありえない風景となっている。この絵に私がはじめて出会ったのは、たぶん小学生高学年か中学生のはじめの頃だったと思う。それ以来、とにかくその「風景」に憧れて、意味もなくただ憧れて、いつしか気が付かないうちに、「それ」が私の生きる力になっていることに気が付いた。生きる事に意味はない、と何時だったかコラムで書いたが、私たちは生きなくてはいけない。生きるためには力が必要だから、きっと私たちは意味も無く何かに憧れたり、ただ旅行に行ってみたり、それらは人それぞれだからいろいろなんだろうけど、好きなものや憧れに意味を求めてはやはりいけない。そこにあるのはやはり「信じる力」だから、私はきっと古賀さんの絵に憧れて、それを求めながらひたすらに生きている様な気がする。私にとって生きることは同時に建築を設計することでもあるから、建築に憧れることは、つまりその風景に憧れることと同じなのかもしれない、と今回絵を見ながら気が付いた。働くのは、もちろんお金を稼ぐ為だし、スタッフに給料を支払う為だったりするわけなのだが、それは結果の様な気がして、つまりお金は目的なのか?という根元的な疑問にいつもぶつかってしまうから、お金って何なのか、と考えはじめたらそれはNOとしか言えない。絵画との出会いは人生のスタートと言えたわけで、そんないい加減な生き方がきっと私にはあっている。

□2008.03.14top

 心象風景って言葉はよく聞くが、具体的にはどんなだろうか。建築をデザインするという職業に携わって以来、なんとなく、幼い頃にみた夢や風景を思い出すことがある。「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」方丈記の冒頭に出てくるこの文章はあまりにも有名だが、私は川を見て育った。小学校の帰り道、よく橋の手摺りから川をのぞき込んで、そのまま流れていく川をずっとじっと眺め続けて、そのうち、川が流れているのか、自分が背中の方向に動いているのか分からなくなってきて、終いにはまるで走る船の船尾から海を覗いている様な感覚にまでトリップして、気が付いたらたぶん30分くらいはただアホみたいに川を覗き込んでいた様な気がする。「美しい」という言葉をまだ僕が持ち合わせていない時期だから、ただそこにある風景でしかなかった。山も、山に切り取られた空も。いつからそれを「美しい」と思う様になったのか。本当は「美しい」なんて無いのかもしれない、と思ったりするのは、確かに子供のころ、そんな概念がそもそもなかったのに、でもただ惚れ込んでいた風景の様なものは確かに、あった。「美しい」と言った瞬間に、本当にそうなのか?という疑問も湧いてくる。やっぱり言葉は何処まで行っても言葉なのか。

□2008.02.20top

電車の吊り広告を見ていて?なことは多い。以前数回そんなことを書いた様な気がするが、でもうっかりするとそんなことすら日常の中に埋没してしまって、気が付かなくなるから怖い。広告のコピーについて、ぼーっと周囲を見渡しているだけでその側面が端的に表れていることが多いから割と見ていて飽きない。ほんの一例を挙げると、「フルハイビジョン上映がすぐに楽しめます」「安心を守るのも私たちのしごと」「新しい情報がいつも何かある」等々。僕が思うに、どうやら変だ。どうですか?フルハイビジョンは特定の「物」を指し示す名詞なのに、その後に上映という「何々すること」という「こと」をくっつけてしかも「が」で繋ぐから、まるで意味不明な物事が一体何を楽しむのだ?といった事態に陥る(笑)。「フルハイビジョン映像をすぐに楽しめます」が正解でしょうね。たぶん。安心を守る?安心も「何々なこと」という意味だから直接的には守りたくても守りようがないでしょう。例えば「安心出来る環境を守る」とかいっそのこと守るを止めて、「安心感を継続させる」となれば意味が分かる気がする。また、新しい情報がいつもある、でいいのに、どうして「何か」が入り込んでしまうのか、これもかなり怪しい文章だ。読めば読むほどに頭がぐるぐる回り始めて気持ち悪くなる(笑)。公衆に曝される文章がこんな状況ってことは、プライベートで交わされている言葉はどうなっているのか不安です。最近読んだ本で書いてあったが、「目があるから見えなくなった」という文章が脳裏に焼き付いて離れない。つまりこの事態に添う様に、私なりに言い換えれば「言葉があるから言葉を失った」となるだろう。この意味、皆が深く深く考えてみる価値はあるとは思いませんか?

□2008.01.12top

 年末、信じることについて書いたので、まるで宗教じみた話になってしまいましたが、誤解を恐れずに書くとすれば我々は必ず心の中に自分の宗教をもっていると思う。宗派など無く、自分の生きる道を確かめるために、次の一歩を見極めるためにかならずそれが必要になってくる、無意識のうちに。最近ある本を読んでいてそれは「物語」なのだと分かった。神話と読んでもいい。人類史上、自然災害や疫病に苦しめられながらそれを「納得」することがすなわち精神の調和であって、「生きていける」ということに繋がるのだから、そこには必ず神がいて、養老猛司の言葉を借りれば「仕方が無い」という概念を造り出すことが出来たのだろう。 今、私は物語を持っているから生きていける、と前回のコラムを書き直してもいいかもしれない。その物語を私は私の恩師である建築家吉田研介先生からもらった。彼はいつもそれを「アーキテクツマインド」とよぶ。意味は、残念ながら分かる人にしか分からない。でも本当のところは私も分かっていないのかもしれない。彼はそれ以上にその言葉の意味を説明しないから、弟子どもはそれぞれがその意味を自身の中で醸造し勝手に解釈するしかないのである。でもそれはそもそも言語による意思伝達の限界であって、人類普遍の問題でもある。言葉は実は何も伝えない。結局どこまでいっても言葉の奥に潜む精神なのだ。人の発する精神を言葉のさらに上の概念で感じ、そこに物語を構築出来るから私は私なりのアーキテクツマインドを持つ事が出来る。先生のそれに恥じない様に、今年も一年、大切なクライアントのために努力していかなくてはいけない。

□2007.12.22top

 いったい僕たちは何のために建築を目指しているのか。いや、理由などない。ただ気が付いたら建築に憧れ、何か分からないが空間をつくり精神の調和する瞬間にただ憧れ、そしてひたすら走っていた。クライアントの喜ぶ顔を思い浮かべることもある。これしかなかった、と思える、その場、その空気の中にただ置かれた建築のカタチ。そこから発する圧倒的なまでの力強い魂に魅了され、そしていつしかそれを追いかけて走っていた。しかし未だ追いつける感じがしない。どこまで行っても真っ白な霧しかみえない道を、確固たる理由など実はなく、建築を信じて気が付けば走っていただけのこと。信じる事に理由はないから、建築を目指す理由も本当はないことになる。生きることに意味はないことに似ているなと考えることが最近多い。なぜ自分は生まれてきたのか、なぜ生きているのか。人は道に迷うとだいたいそんな事を考え、意味を求める様だが、私は道に迷ってもそんな事は考えない。なぜならば信じる勇気があるから。気が付いたらただ生きていた。だから生きる事をただ受け止めてより善く生きようとする勇気、理由もなく建築を信じてひたすら向かっていく勇気。信じることが唯一生きる力であり、力があるから皆、生きていける。

□2007.12.05top

 今大学の授業でビーチハウスの設計課題が出されている。ビーチハウスはとてもシンプルな課題で、単純に言ってしまえば浜辺の風景を読み取り、その美しさや楽しさを増幅するためのシェルターをピュアーに表現すればよい。公共建築はおろか住宅と比較しても、とても単純な機能だけが要求されており、今年は特にトイレや水回りさえ要求からはずされているから、より一層に空間の創造に向けてまっすぐに走ればいい。しかしそこで大きく躓く原因になるのは、美しい空間、ワクワクする様な空間、造形、それを堂々と体当たりして来ない。どこかで、設計に対して理由を求めている感じがする。あるカタチがあるとする。なぜその様なカタチかという問いに対して、砂浜に対してなるべく建物を目立たせたくなかったから・・(絶句)、波の形を象ってみました・・・・・。じゃあ、そのカタチをあなたは、好きじゃないんですか?好きじゃないならやめなさい、とつい言いたくなる。波や風を例えに自由な曲線を用いてももちろんいいが、一旦空間化したらそんな理由付けは一切通用しない。ただあるのはその造形であり、その空間の魅力、力強さ、美しさだけが唯一の存在理由となるはずだ。そこをどうやら分かっていない学生が多い様に思う。カタチを導き出したヒストリーやダイヤグラムがはっきりしていても、それで人は感動しません。意味はどこまでいっても意味。それはたんなる思いこみであり、建築はやはり構築してこそ建築。思いこみはその人が勝手に思うこと。他者が同じ様に思うかどうかは全く別問題だし、他者に強制する様な事があってはなおさらまずい。空間に感動するとは、それを体験した人の内部に泉の如く、何かが湧き出す瞬間を言う。つまり作者の「意図」から遠く離れて、建築は一人歩きをするのだ。空間を構築する力、それを思い出してほしい。幼年期に戻って。

□2007.11.01top

 昨日、神奈川建築コンクールの表彰式に行ってきました。表彰式に先立ち住宅部門の審査経過などについて審査委員を代表して建築家室伏次郎氏が講評を行ったのですが、今年の入賞作の傾向として、構造的なチャレンジ精神を感じる建物が多かったことが挙げられました。確かに私の設計した湯河原の家も構造家の協力なくしてはなし得なかったであろうし、他の作品も門型フレームその他構造的な新たな解釈や、構造と意匠のコラボレーションがいきいきと伝わってくる作品が目を引きました。しかしながら6月20日の法改正以降の設計業界、とりわけ構造設計に関して行政の無意味な締め付けによって、我々アトリエ事務所や構造事務所は現実的に考えられないほど多量の事務作業と審査の困難さを突きつけられ、廃業する事務所が多数出てきているのが実情です。室伏氏は法改正によってチャレンジ精神溢れる素晴らしい作品が今後出来にくくなりつつある状況を踏まえ、是非現実に屈する事なく来年も素晴らしい作品を審査出来る事を祈っている、という事をおっしゃいました。すぐ横に神奈川県副知事をはじめ神奈川県内全ての市長が臨席されている会場であるにも関わらず、その我々を励ます力強い発言、建築家室伏次郎だからこそ言えたその勇気には心から感動しましたし、その姿に憧れ、そして困難を伴う創作活動への意欲を持つことへの精神を改めて確認するチャンスとなりました。

□2007.10.04top

 湘南海岸を車で走っていると、ここ数年でその砂浜の前に建て売り住宅、ハウスメーカー、地元ビルダーの設計施工?といったいかにも流行に迎合しきってしまった様な、安っぽさの極みの住宅が建っているところがあります。その中で一際目を引く存在の家があります。カタチは切妻、外壁やサッシは何の工夫も思想も無い平凡で且つ安っぽい仕上がりで、小さなバルコニーがデザインの要の如くピンク色に塗ってあります。それだけで十分な破壊力をもって、その美しい浜辺の風景に飛び込んでくるのですが、その前になんとメルセデスベンツが2台、まるで象徴の如く塩害に耐えながら屋外に鎮座しているのです。見た瞬間に、あぁこれは日本の貧しさの象徴だな・・と思いました。ベンツに乗って何が貧しいのか、とお怒りのメルセデスオーナー様、そうではありません。私は生活者としての心の豊かさの事を言っているのです。デザインに対する意識の未熟さというのは、度々指摘を受ける現代日本人の悲しい性ですが、あれだけ無意識且つ安普請な建築空間に住んでいながら、ベンツに拘るというのは、つまりベンツの本質も分からず、ただその象徴性に憧れて所有するということだろうと想像してしまいます。それは歴然と「物」にたいする欲求であり、その奧にあるべき精神性は見事に形骸化されています。つまり、なぜいいのか分からないけど、みんなが羨ましがるからきっといいものだ、そしてそれを所有している自分は立派な「はずだ」、と思い、安心する。立派なのはメルセデスであって、自分ではないのに、それに気が付かない。ブランドに拘るケースも似たようなものでしょう。お金をかけていい家を建てるべき、と言いたいのではなく、自分を取り巻く全ての生活環境は、平等にクオリティーを上げていくべき対象であって、それを誤ると「成金的」と言われてしまいます。超がつく様なローコストハウスであっても、精神だけは決して安売りしない、そんな素晴らしい住宅は世の中にたくさんあります。豊かに暮らすために必要なのは、自分の心であって、物ではありません。物は金で手に入りますが、心は金では買えませんから。

□2007.09.01top

 少し遅く家に帰って、夜のニュースを見ていたら、「幼児殺害事件」「親殺害事件」「ひき逃げ事件」と、立て続けに3件の殺人事件が報道された。しばらく頑張って見ていたが、さすがに人がころされた、だれかが捕まった、等と言った内容で30分は堪えきれず、とうとうテレビを切ってしまった。そもそも、ニュースって何だろうといやでも考えさせられる。こう言ったら当事者に怒られるかもしれないが、所詮他人事でそれがどうのこうの言ったところで私にとってはやはりどうでもいいし、例えばその内容で自身の考え方や、明日の生き方を変えてみようとは思わないだろう。かわいそうねぇ、と妻は言うが、(無論、反対はしないけど・・)他人に同情している暇があったら、その殺意の動機となった価値観というものが、どの程度普遍的なものなのかをまずは考えてみた方がよさそうだ。例えばお金。お金ほしさに人を殺すなんて話題はどこでも聞く形而下の代表的出来事の様にも思うが、そのお金がそんなに大事か。お金は現実と思っている人も多いでしょうが、お金ほど抽象的なものはやはりありません。原始時代にお金はなかったろうし、例えば戦争の最中、お金はどの程度の価値があったか。まるで宙に浮いた様な抽象概念の為に、我々人間は夢にうなされる様にして悩み、人を殺して、自殺もする。頭がいいのやら、悪いのやら。

□2007.08.01top

 数日前から家族揃って風邪をひきました。原因は寝るときのエアコン(だろうな、きっと)。私は先週の火曜日、建物の撮影に炎天下に立ち会ったためか、頭痛が始まりまずいな、と思っていた矢先に子供から風邪をもらってしまった様です。先日の日曜日は久しぶりに家にいて、まだ1歳になったばかりの子供と一緒に過ごしましたが、晴天に恵まれ絶好調に暑かったので、子供の熱もあがる一方。(実際39度まで上がりました)こんな時、家の中で一番気持ちがよい場所は縁側。我が家の場合、中庭に面しているので家の中で一番涼しいと思われる。夕方を除けば直射日光も当たらない。蚊取り線香の煙がたゆたう様に流れていく様子をボーと眺めながら過ごす時間が贅沢なものだな、と思いました。やはり家には、いろんな居場所が必要です。直射日光の当たらない暗めな居場所、暑い日でも窓を開けて外気に触れながら座れる、ただそれだけでいい。エアコンなんかいらない、そう思えてくる。小さくて40p角でもあれば十分座れる。それが居場所の概念であって、部屋というセルの蓄積ではない。居場所は常に「流動的」であって、それでいて「分節」もされている。「部分」と「全体」が共存している考えとはそういった空間の事だろう。我が家の縁側はそこだけ孤立した存在ではなく、庭やガレージ、子供の場所や食事をする場所やらと、明るさのバリエーションや、目線レベルの違いから連続と分節を繰り返す関係の中でこそ存在する。そこに居る人と他の場所にいる人との関係は、その都度変化し、相対的な関係を得る事が出来るから、気持ちがいい。選び取る居場所、というのは、つまり答えが用意されていない人と人の関係を、住まい手側が直感で選び取るという意味。そんな複雑な家を、出来るだけスマートに美しく解いてみたい。そんな欲求がまた湧いてきた。

□2007.07.20top

 電車の続きですが、吊り広告を見ていて大学と転職斡旋業者の宣伝をよく見かけ、そして気になる。まず大学、「変わる○○大学!」「新しい○○大学!」、え?それがどうしたの??変わった、新しい、ってそんな大声あげて言うことかな。つまり、今までだめだったって事?それじゃ、今在学中の学生の立場はどうなってしまうんだ?まるで消耗される事が前提の新商品たたき売りじゃあるまいし、少なくとも環境を選びにくい義務教育の現場ではなく、各自が選んだ専門の道に進むわけだし、本来そこに在るべき学問は普遍なはず。そんなコロコロ変わられたんじゃぁ、たまったもんじゃない。さて次に、転職斡旋業者の広告。「自分探し」。って自分はもうそこにあるじゃないか!そこにある「自分」という概念は哲学的に考え始めるときりがないのでここでは止めるとして、人間生まれて精神を宿して以来、どんなにしたって離れる事の出来ない自我というものを、どうして改まって探す事が出来よう。「自分の価値」。人間の存在に価値もへったくれもあるものか。ならば価値のある命と価値のない命があるという事ですね?なるほど。そういえば、大学の宣伝でも同じ「自分探し」って言葉見た事がある。ここに至ってはもう返す言葉が見つかりません。言葉の意味も分からず、しかも意味の分からぬものを探しに行くところ・・・一体何しに大学行くんだろ。

□2007.06.05top

 先日、といっても初めての経験ではないので改めて日時を特定する意味もないのですが、電車に乗ったらとてもよくしゃべる二人組と乗り合わせた。JRのボックスシートの向かいに座っていた二人組は、意味も無く(少なくとも私にはそう感じられた)ただひたすらにしゃべるために口を動かしている様 にも思われた。よくもまあ、そんなにしゃべるものだ、と最初のうちは感心していたが、そのうち妙に腑に落ちた。きっとこの人の頭の中の全てはその会話なのだ。思った事、感じた事全てが、何の思慮も配慮も無くそのまま言葉として排出されて行く。ああ、この疲労感。言葉はロゴス。言霊という文字がある様に、言ったことは現実なのだ。言う事によってのみ現実化すると言ってもいい。例えば、死。その言葉の意味する事はどこまで行ってもひたすらに「死」というたった一言でしか表現出来ない。つまり、言葉を持たない生物に死は無い。我々人類の死とは何なのか。だれも経験した事のないその神秘。一人称の死はやはり無い。その深い精神を思い、味わい、しゃべる事は大切にしていきたい、と私は思った。

□2007.05.11top

 昨夜遅く、いつものように本を読んでいたつもりが、気が付いたらなんとテレビをぼーっと見ていて午前1時だった。特に無内容な相変わらずのバラエティーだったようで何も印象に残っていないから余計に疲労感が襲ってきた。これは生きることの浪費だな。逆に読めば疲労・・・・私は日頃ほとんどテレビを見ないので、と言うより見たくないので、妻や子供の後を追っかけてテレビを消す役回りだ。消してさっさと音楽をかける。聴くというよりはとりあえず流れている環境が心地いい。日頃の業務を考えてみた。クリエイティブと言えばかっこいいが、そんなの全体の1割にも満たない。ほとんどは決められた物事を予定通り遂行するための根回し、処理、事務手続きといった内容ばかりで、それがアトリエの現状。やはりそれら消費、浪費の類。きっと創造は浪費の上に成り立っているんだな。浪費はよくない、何かを作り出す側にいたいと考えてきたが、作り出すという行為が、脳内現象の領域(想像)を飛び越えて、物質的な何かを出現させる欲求にまで行ってしまえば、やはり何かを犠牲にしてしか成り立たない。音楽を流す理由も考えたり本を読むのに心地いいからだが、そこにも電気の浪費が潜んでいた。それが現代というものか。近代以降、特に石油を中心にして浪費の文化がスタートした。浪費の原動力は言うに及ばず物。物はものすごい勢いで流通して捨てられる。一方で新たに物をこしらえる人もちゃんといるわけで、作るにはエネルギーの消費が欠かせないわけで、結局のところ環は閉じて堂々巡り。

□2007.04.02top

 先日、NHKで古代遺跡の発掘を取り上げた番組を見た。世界中にとてもたくさんの考古学者と言われる方々がいるものだな、と思いましたが、その「過去を知る」という興味がどういう訳だかへんな方向へ向かうと「単なるコレクター」になり「発掘者としての名誉」を求める醜い欲望が露呈した普通の人になるようです。そもそも人はどうして過去を知りたくなるのか疑問に思いませんか。過去に限らず未来も知りたがるし、さらに遙か遠くに離れた場所の物事や、他人の事、宇宙の事。人はいろいろ知りたがる生き物なのだな。探求心、っていうのかしら。それがなかったら一般的にダメなひとって言われるから困った社会になったものです。哲学的な意味で宇宙を考えるのなら誰にも迷惑はかけないけど、単なる人間の欲求で喧嘩したり何かを壊したりするのは、その人が死んでしまえばそれまで。一体何に駆り立てられ、怒って喧嘩して汗水流して「知って」「集めて」、そのことに一体何の価値があるのか分からない。周囲を安直に探求するのも悪くなないが、ぼーっと、無いことをただ想像してみたりすることの方が私は好きだ。私たち世代ははっきり言って「物欲」の世代だと思う。生きて求める何かが、最終的に「物」に帰着出来る物事である事がほとんどだからだ。自分も物に拘る方だから良くわかるけど、本質的な価値は「物」自体には宿らない。ならば価値はどこにあるか。「物」の奧に潜む精神性としか言いようがないです。愚直なくらい分かり安い例をあげると、「結果ではなく、プロセス」という言葉がある。日本はものつくりの国だったが、もともと持っていた誇り高き「作る精神」をどっかに置き忘れた様だ。

□2007.02.13top

 先日、久しぶりにのぞみ1号で西に向かった。まだ早朝で薄暗い中を走っている内に、トンネルを抜けたら突然霧につつまれてびっくりしてしまった。今まで森と民家とたまにビルが入り乱れた日本独特のへんてこりんな風景が、突如として美しく無限に広がる空間の風景へと変貌を遂げた。透けるって事はやっぱりすごいんだよなぁ。見せるでもなく、かといって全然見せないわけでもない。何となく見えていて、それがしかも美しく白く輝いている。いやいや輝いてみえるのは、私のイメージがそうさせているのであって、実際にその時、霧が輝いていたわけではないのです。私は山間の町で育ったから、何時も、正面を向いて歩くと目の前には、たぶん山があった。空は見上げるものだったから、見慣れたその風景は日常だったし違和感も何もなかっただろうと、今更ながら思うが、それが日常をはなれ夢の世界へと飛躍出来る瞬間があった。それは霧が出た時だ。だから小さな頃から私は霧が好きだ。今でも大好きだ。でも残念なことに、ここ茅ヶ崎ではほとんど霧が発生しない。昼夜の寒暖差が少ないからだろうか。まれ〜に発生した時は、やっぱり、といった感じで、つまらない外灯や汚い車のヘッドライトの明かりなども、何となく美しく見えてしまう。精神がふわりとどっかへ飛んでいってしまいそうな瞬間。出来れば朝夕の薄暗い中での霧がより一層、美しい。

□2007.01.20top

 ドイツやイタリア等で生産される家電品と日本国内で生産される家電品の、デザインの違いはどこから来るのか?という疑問は多くの消費者が持っているのではなかいと思いますが、もちろん私も正直言って日本国内で生産される家電品の醜さにはあきれるばかりで、一部のデザイナーによる商品を除けば購入する気にならず、結果として購入自体をあきらめる事も珍しくありません。そこで、最近その原因の一つを発見しました!それはスイッチです!スイッチといっても電源on/offだけではなくて、操作スイッチ全般の事。日本の家電で共通するのは、全ての操作を横並び一列に列挙し、一つのスイッチで一つの操作、というパターンで、やたらとスイッチが多い!一方優れたデザインの家電品は、スイッチの数がとても少なく、一つのスイッチがその下に多くの階層を従えている。つまりフローチャート構造をなしている為に階層さえ理解すれば、少ないスイッチで、的確に目的とする操作へ到達出来るという訳だ。だから日本の場合、機器の廻りに小さいスイッチがやたらとたくさんあって、場合によってはどれがどれやら分からなくなってしまう。挙げ句の果てには、「さらに分かり易く」する為と想像するが、そこに大きな日本語で目的とする操作がくどい位にかかれている嘆かわしい状態。デザインくそ食らえ!って言わんばかりだ。日本の家電メーカーは、消費者をバカだと思っているに違いない。そうでもしないとたぶん使えないだろうと・・・。そうそう、メーカー競争の結果、訳の分からぬ無意味な機能をてんこ盛りし過ぎた弊害かもしれない。

□2006.12.25top

 一年大変お世話になりました。& あけましておめでとうございます。やはり、あっという間の一年でしたね。年齢を重ねるにつれてどんどんと早くなっている気がします。気が付けば歳をとっているものです。仕事納めは大晦日に茅ヶ崎の家の取材+撮影依頼が来ていますので、立ち会いたいのですが、もしかしたら無理そうです。年始は4日〜です。5日は我が家で取材が予定されていて、慌ただしいスタートになりそうです。
皆様お正月はいかがお過ごしでしょうか。日頃空を見上げる余裕のない方は、是非空を見上げてただ何もせず日中をお過ごしになってはいかがでしょうか。夜空ではなくてこの季節特有の真っ青な空がいいですね。人生に於いて、要は何が大切かが分かると思います。

□2006.12.12top

 東京からの帰り道、電車の車窓から見上げた空がとても綺麗でした。午後4時半前だったか、西に夕日、東にだんだんと灰色と水色の入り乱れた雲のちらばった空が流れて行った。空の照度もかなり落ちていて、周辺にふわふわと漂う空気は既に闇へと吸い込まれつつあるから、樹木のシルエットは、葉を落として痛々しいくらいに黒く細くしなやかにその姿で空を切り裂いていた。私は西に広がる赤い空よりも、東側の闇へと移りゆく黒と青とグレーの空が好きだ。どういう訳だかしらないが、やはり夕日は哀愁に満ち、そこに色々な思い出やら感動やらが入り乱れる事になるが、東の空はそんな感情の入り込む余地もなく、ただ精神が解き放たれそして、空の彼方へ飛んで行ってしまう。疲れた時などは特にそれを強く感じる。奥行きのある色はどんな色か。透けた空間というのは、いずれにしても主体、つまりその感覚を論じようとしている人間の主観に委ねる事を覚悟しなくてはいけない。そんな空間の計画こそ、アクティビティーに満ちあふれたものとなるはずだ。そんな事をぶつぶつ考えていたら、すぐに外界は闇に支配され茅ヶ崎に着いた。

□2006.11.18top

 いよいよ週明けからアトリエの改修が始まります。といってもそんなに大げさな事ではなく、サッシの交換、お風呂の解体〜倉庫への改造、それから既存の机を全部処分してカウンターを設置、といったところです。でも小さくてしかも一部屋しかないところを改修するわけですから、逃げ場がありません。一体どこで仕事をするのか?始まってみなければ分かりません。そもそも人の座る場所が少なくて、3人目からは打ち合わせテーブルで作業をする事になってしまい、何かと大変だったのです。それから築40年近い建物のオリジナルサッシのままでしたら、すきま風が酷く、窓際に座っている私に至っては毎年脚の指が霜焼けになる始末ですから、やっとそんな過酷な冬ともおさらばです。そもそも何で茅ヶ崎に居て、霜焼け?とお思いになる方もいらっしゃるでしょう。その秘密は、この古いリゾートマンションの換気システムにあります。このマンションは何と24時間365日強制換気で昼夜を問わず外気が室内に吹き込んでいるのです!ですからこの部屋の気密が高まれば、他の部屋でより強く吸気が行われる事になるはず・・(笑)貧乏暇無しのくせに、お金と暇を費やして、こんな事していていいのでしょうか。

□2006.10.18top

 私たちは日頃から建物という「物」、目に見える物をどうにかして美しく出来ないか、と職業柄、考える。それは視覚という感覚器から入力される感覚であって、人間の感覚器の内の一つにすぎない。美しい、と思って感動する事はもちろん、視覚的な作用だけに限ったものではなくて、聴覚や触覚、臭覚にも味覚にもあるだろうと思う。でもやはり一般的に「美しい」というまか不思議な抽象的概念の対象になるのは視覚ではないかと思う。みなさんはどうですか?身の回りの物品は、なんとなく美しいもの、気に入った物を購入したい、という欲望は誰もが持っていると思うけど、建物はどうですか?不思議なものです。そこだけ、感覚が底抜け状態に、限りなく「無」なのです。どうして、建物を芸術の対象として考えられないのでしょうか。「美」などという抽象的概念は人によって誤差があるだろうし、私はそれを美しいとは思わない、とか、反論もおありでしょうが、私は普遍的な「美」の存在を知っています。だから何も迷わないですが、例えば、普遍的な「美味」はあります。これにも好き嫌い、という個人差を持ち出して反論をされる方もいらっしゃると思いますが、そういう方は「個体差」と「進化」を理解していないだけではないかと思います。進化論的に言えばやはり美味しいものは美味しい。誰が何と言おうとも、結局のところ美味しい料理屋は歴然と存在します。そして、その普遍的価値基準は、進化と共に微妙に変化していると考えた方が自然です。しかしながら、その間に、何百、何千と人は死に、生まれます。だれもその進化を実感する事は出来ません。歴史は過去を調査研究によって想像しますが、どんなに科学が進化しても過去の「感覚」を体験出来る人は、論理上、誰も存在しません。今の感覚を信じて、その「美」を実感し、物事を味わえる事が豊かさ、と私は考えています。

□2006.08.24top

 お盆休みに出雲に行ってきました。主な目的は菊竹清訓氏の代表作である出雲大社の境内にある「庁の舎」。学生時代から写真だけをみていましたので、そのダイナミックさと繊細さの融合したコンクリートの造形が本物である事が最初信じられませんでした。学生時代にヨーロッパを貧乏旅行した時も同じでしたが、憧れがある意味で頂点に達している建物というのは、自身の想像の中でその造形だけが勝手にどんどんと巨大化し、その実物を見た時に「以外と小さいな・・・」という感想をもったりするものですが、この庁の舎も参道の先にシワという時間を深く刻み込んだ紳士な老人を思わせる風貌が立ち現れた時、なるほど、やはり小さいな、と思いました。出雲に向かう山陰本線の汽車の中で、菊竹氏の古い本「建築のこころ」を読みなおし、規模に対する要望が無く、大きくも小さくも設計する事が出来た事が非常に難しく、竣工までに6年もかかった理由の一つとして上げられていましたが、このスケール感というのは、機能という建築の持つ宿命を棚上げした先に見える、境内のプロポーションだな、と思いました。庁の舎の向こうには巨大な本殿がそびえ立っています。そのパースペクティブの一部にさらに横長で低く抑えられたダイナミックなコンクリートの造形が、さらにパースペクティブを効かせて鎮座しているのです。かっこよすぎます。境内に立ち、庁の舎と本殿とのパースペクティブを暫し楽しんだ後、スケッチブックにその勇姿を撮して帰りました。

□2006.08.01top

 スナマジリノチガサキ〜♪最近サザンをあまり聴いていませんでしたが・・おめでとうございます。梅雨明けです。アトリエは茅ヶ崎海水浴場(最近はサザンビーチと呼ぶらしい)まで歩いて1分ですので、バルコニーから海の家も見えますが、やっとの来客に生き返った様です。毎年、何回かは武者修行の学生とスタッフと一緒に、お昼に海の家のラーメンを食べに行きます。以前、海の家でラーメンを注文したら、店員が出前の電話をかけていた事もあり絶句しましたが(笑)、近年行く店はちゃんと自前でこしらえている様で安心しました。カレーはレトルト。この程度は驚きません。近頃、鎌倉や江ノ島辺りでは、海の家らしからぬ海の家がたくさんあって(私は利用した事がないのですが)バーやらレストランやら、いろいろですが、その点、茅ヶ崎は昔ながらの「ガランドウのお座敷」タイプで(最近外来種も増えてきたが・・)、まだまだ懐かしい雰囲気です。まずいラーメンも美味しく感じるのは、きっとその雰囲気のお陰でしょう。ラーメン食べたい学生諸君、武者修行に来て下さい。

□2006.06.22top

 今日、久しぶりに「books」のコーナーを更新しました。やっとという感じです。どうも実務に追われてしまって・・。実は相変わらずのペースで本は読み続け、あまり自慢は出来ないのですがとりあえず1週間に1冊は読み終える様に心がけています。それから続けざまに必ずもう一回同じ本を読みます。場合によっては時間をおいて3回読みます。なぜかと言うと、何度も読まないと分からないのです。分かるという事の意味が分からないという方もいらっしゃると思いますけど、ここはひとまず単純に「分かったという気持ちになる」という意味で、です。そうして、私の意見を述べる、なんて事をするつもりは実は全く無く、単純に覚え書きがしたくて「books」のコーナーをHPのリニューアルに合わせて始めました。「分かる」と「書く」の関係は結構深くてねちっこいものがありまして、「分かる」というのはどこかで主観的なものが支配していると思うのです。一方「書く」というのは文字(言葉と言っても同じ意味ですが)に置き換える時におのずと第三者へ伝える事が目的で発達した、いわゆる「シンボル」(見た目には意味不明な何の役にも立たないもの、人間の最も高等な知能で操る物事)に置き換える、変換作業というプロセスを必要とします。案外、分かったつもりだけれども、実は・・・という事件が発生するのは、そこのギャップが作用していると思います。私たち、建築設計をする立場として、「かっこいいい」とか「うつくしい」とか連発し、熱弁をふるったところで、クライアントには伝わらない訳です。そういった言葉ではなくて、別の共通言語で語る必要が出てきます。だから私は本を読み、覚え書きをするのです。またしばらくはさぼらず書きます。次回は橋本治さんを予定しています。たぶん。

□2006.06.10top

 梅雨です。別に言いたくもないですが、私は傘を紛失する名人ですから、今年は梅雨入り前から既に4本無くしました。決して自慢するつもりもありませんが、どうやらこの時期に集中している様に思えるのです。今年に入ってまず一発目は、1本骨が折れていて、ついでに庇の先っちょのゴムが一カ所取れている為にビニールの一部がベロベロ状態の傘を無くしました。何処で無くしたか。それは不明です。とにかく紛失しました。次は東京の学校へ向かう朝の満員電車の中で、です。座席の横に引っかけていたはずが、どういう訳だか分かりませんが、学校に着いたら持っていませんでした。続きましては、同じシチュエーションで、電車を降りようとしたら、座席の横に引っかけてあるはずの傘が無い!これは盗難ですね。仕方なく近くの店まで濡れて歩いて、一番安かった600円の傘を買いました。私にとっては数年ぶりの高級傘です。う〜む、これは気を付けなければ・・・。数年ぶりの高級傘はピカピカつるつる、濡れない範囲も広い!!これは感動ものでした。しかし感動もつかの間、翌週の出張の際、スタッフが遅れたので時間調整で入ったソバ屋さんに(どうやら)寄付して来てしまった様で、なにしろ、出張先が目を見張る様な晴天で、朝、雨が降っていた事すらすっかり忘れてしまい、今日、こうしてコラムを書いていて思い出してしまう始末。まぁ、これはスタッフが原因と言っていいでしょう。(そんな無茶苦茶な・・・。:staff追記)学生時代以来、ビニール傘専門で通している私ですが、原因はどうやら考え事の多さ?考え事をしていると車の運転もやばい事があるので、極力仕事で車を使う事は避けるのですが、電車に乗ったら乗ったで・・・・。

□2006.04.26top

 先日、三島でRSH:4のオープンハウスを行いました。今回は東京から離れているという事もあって大学の友人や先生には声をかけませんでしたので、プロデュース(ASJ)の方で一般向けに告知がされての開催となりました。せいぜい10組来ればいい方かと思い、本を数冊持参して、初日の午前中は快調に読み進めていましたが、午後すっきりと晴れ間が出てきたとたんに、どんどん湧くように夫婦連れが来られ、気が付いてみれば二日間で70組オーバーの来客でした。大盛況はいいのですが、あまりにも人が多すぎて、ほとんどの人と話などしてる余裕もなく、ゆっくりと見て欲しいインテリアの繋がり方など、人混みで何が何だか分からない状態でした。ともかく、地方で、設計者にきちんと設計してもらって家をつくりましょう、という人は絶対数からすれば本当に少なくて、でも圧倒的に首都圏と比べると建築家の数も実績も情報そのものが少ないのも事実ですから、少数派とはいえども、こだわりの家を造りたいと思っている方が何処でもいるという事の証しですね。その点では素直に嬉しかったです。クライアントにも本当に喜んで頂きまして、無事に引き渡しも終えました。心から感謝致します。

□2006.03.13top

 週末、長崎で行われた「長崎県木造住宅コンクール」の表彰式に行ってきました。第10回目という事で、地方ならではの独自なスタイルで住宅文化の引き上げに力を要視されていないという事でしょうか。そこはむしろ保守的な感じが否めませんでしたが、この狭い日本をぐるっと見回したところで、どの程度オリジナリティーが生活に求められているかと考えると、本コンクールの傾向は長崎独自というよりは地方での普遍的な傾向と言ってもよいのではないでしょうか。結局のところ東京に一極集中しすぎている日本の悪いところで、ついつい日頃我々の考えている「住宅のあり方」の様なものが普遍的だと考えてしまいがちです。まぁ、とは言いましても伝統的なスタイルの継承、その行為自体に未来は無い事だ注いでいる様子が伝わってきました。審査の傾向として特に気が付いた事は、オリジナリティーをどう評価するか、という点に於いてはあまり重けは確かですし、極めて正確に我々は「生活」という部分にスポットを当てて、住空間を構想して行かなければなりません。我々は決して奇抜さを狙っている訳ではなく、かと言って、保守的な意味での「スタイルの継承」という安全パイにも興味がありません。良い木を適切に使用すれば長く使える日本に合った住宅は可能でしょうが、それは「職人芸」的な側面も持っており、あくまで「もの」ではなくて「空間の計画」そのものを知的財産として扱う職業を設計と認識している私としてはその辺をきちんと整理して勉強をして行く必要性を感じています。ともかく、お誘い頂きました施主兼工務店の友人本多氏には感謝。本場長崎中華街のチャンポンは嘘みたいに旨かった!もうリンガーハットには行けません。どうしましょう。

□2006.02.28top

 2月24日、14階建てマンション建設の為の杭工事が着工したのを確認した。まだ既存建物の解体が完全に終わっていない間に、杭工事スタートという極めて不自然な着工だった。市や関連団体との協議と時間との競争だった訳ですが。年度内完成を目指している地区計画を一旦破棄する為には、ともかく着工する必要があったからだろう。2月末というひとまずのタイムリミットは、あっさりと着工というかたちで幕を閉じた。  25日、大京本社に茅ヶ崎市長が直接訪ね、再度事業の中止を申し入れたところ、驚くべき事に、「当面の事業の凍結」が受け入れられました!これは正直言いまして信じられない展開。ただ、着工した事で今後の事業展開と、地区計画策定については強い関連性を持つため、一企業として今後の発言力がますます強くなって行く事が考えられ、我々の目指す、湘南の環境を保持する事が出来るかどうか、まだまだ気が抜けない状態。目標はもちろん市の買い上げ。何とかならないだろうか。しかしながら皆さんの署名運動が実った事は間違い無く、これは本当に素晴らしい成果だと思います。署名を送って下さいました皆様、有り難う御座いました。

□2006.02.11top
 「Save Chigasaki
 〜茅ヶ崎海岸を守れ!!〜」

 くどい様ですが、湘南海岸海側に14階建てマンションが某大手ディベロッパーによって建設されようとしています。時間がありません!どうか署名運動に協力して下さい。全国的にマンション反対運動が盛んですが、ここの場合は少し事情が違います。湘南エリア全体を見回しても、143号線(海岸通り)の海側に巨大なマンションは当然ありません。しかも、みなさんご存じの箱根駅伝の茅ヶ崎中継所の目の前に当たる、有名な場所でもあります。つまりこの茅ヶ崎の反対運動は決してローカルな話題ではなく、全国に蔓延するマンション乱開発の象徴と言っても過言ではない、普遍性をもった重要な問題です。ですからこのマンション建設をなんとしても阻止しなくてはなりません。許す訳にはいきません。神奈川県内に限らず、広く署名を頂きたいと思います。2月末が期限です。どうか急いで下さい!!お願いします!
〜署名用紙はこちらです。宛先はアトリエ・チンクにお願いします。〜

□2006.01.10top

 明けましておめでとう御座います。本年もどうぞ宜しくお願い致します。
 さて急なのですが、茅ヶ崎海岸、正確にはサザンビーチの目の前、砂浜の目の前に「14階建て!!」マンション建設が某ディベロッパーによって進められようとしています。箱根駅伝をご覧になっていらっしゃる方ならばお分かりでしょうが、湘南海岸通り134号線は松林が大変に美しく、134号線を挟んで海側には低層の建物がちらほら建っている程度なのです。そこに何と14階建てマンションが計画されているのです。しかも大勢の方が見に来る茅ヶ崎花火大会の会場の目の前、サザンビーチの目の前ですから、花火大会は廻りからは見えにくくなり(つまり完全に独り占め状態)、マンションに見下ろされる茅ヶ崎唯一の海水浴場の登場となる訳です。景観破壊型楽天経済主義の固まりが無垢な茅ヶ崎を襲い始めて10年近くなります。それまで高層な建物は非常に少なかったこの地に、乱雑無秩序に、ただただ儲けたい一心のディベロッパーが乱開発を始めた為、需要と供給のバランスが取れていた保育園も今ではかなりの待ちが発生!松は日々無くなり、見渡す限り建物だけの街に成り下がってしまいました。茅ヶ崎海岸を救う運動が始まっています。どうか、箱根駅伝をご覧になっている皆さん!力をお貸し下さい。署名、ポスターを作る為の資金作りに「save chigasaki」バッチも売っています。いろいろなHPで情報を集める事は可能ですが、例えば http://hamakei.i-shimin.net/ をご覧になって下さい。こちらのサイトにはダウンロードのページに署名用紙がありますので、是非ご協力ください。茅ヶ崎以外の方も大歓迎です。

□2005.12.29top

 年の瀬です。例年通りであれば今日から冬休みに突入するはずでしたが、今年はそうも言ってられない状況です。今週は月曜から金曜まで年内最後の打ち合わせを4件と現場出張を1件入れてしまい、まだ休めません。でも明日で終わりですので、大晦日はそれなりに家の掃除・洗濯・洗い物をして、庭の落ち葉を拾って、金魚の水を換えて、あと無理だとは思うけど出来れば一部剥がれた障子などを貼り替えたりして、それから合間を見ながら6才の息子と魚雷戦ゲームで盛り上がって、締めくくりは紅白とゆく年くる年といった具合でしょうか。年賀状は表裏ともに未だ手つかずですので、これは正月の作業となりそうです。
 さて、来年の目標は何と言ってもアトリエの改修です。アトリエの入っているマンションは築40年を超える茅ヶ崎の海岸沿いでは最も古い建物です。サッシュも設備もオリジナルのままで、すきま風がヒューヒュー入ってくるので毎年あまりの寒さに、あしの指がしもやけになる程です。ですので、まずはサッシの改修。出来ればペアーガラスで(笑)。それから、増えすぎた本と模型を整理する為に机と本棚を作り付けで設置する事。(たぶん本棚は予算の都合で無理)もちろんスタディー模型は毎年処分しますが・・・。捨てられない古い模型がだんだん黄ばんで来るのって見てられないのです。みじめな感じがして。でもまだまだ古い模型も多量に残っているので、そろそろ決断時かな?今はまだ、独立した当初に中古屋から買ったスチールデスクと、学生時代から使っている平行定規を裏返した机の二つしかなく、その上に以前はコンピューターを4台並べてスタッフと図面を書いていました。今はマシンも整理してマックは全てノート型にしましたので、だいぶ良くなりましたけど、完全に手狭です。困った。もともとは壁がたくさんあった部屋も、だんだんにカラーボックスの高さが高くなって、いよいよ天井まで行くか〜?という状況です。壁に掛けていたB&Oのオーディオ装置もついに行き場を失う危機に直面しています。残す手段は、1,部屋の中にロフトを作る 2,模型を天井から吊る 3,必要な時だけバルコニーまで事務室が広がる可動床を考案する。場合によってはキャンティレバーで外に張り出す!といったところでしょうか。
 今年も大変にお世話になり有り難う御座いました。また来年もどうぞ宜しくお願い致します。よいお年をお迎え下さい。

□2005.12.17top

 アトリエから我が家まで歩いて通る近道には、ここ1年以内に竣工したばかりの住宅がたくさんある。この季節、夜な夜な帰宅途中にそこらを通りかかると、凄まじい光量と激しい波動を伴ったイルミネーションに出会う事になってしまう。その激しさたるや、言葉ではなかなかうまく表現出来ませんね。たぶん道を挟んで向こう三軒までの防犯を約束出来るでしょう。と言うか、あれでは子供が風邪なんかひいて寝てる家など、甚だ迷惑きわまりない、安眠妨害になるんじゃない?光の公害だな。そういえば茅ヶ崎にも1年程前だったか、134(海岸通り)の脇にあるラブホテルが漆黒の空に向けてサーチライトなんか付けたものだから、それは大変。もともとあまり高い建物がない地域だったからずいぶん遠くからでも見えてしまうし、ちょうど我が家の裏辺りからその光が、まるで宇宙人でも呼び寄せる近未来映画の一コマの様に立ち上っている訳で、景観に関する無知、無頓着、経済優先主義、結局のところ美とかどうでもよく、全く興味のないといった、今の日本を代表する文化破壊型経済主義人間の代表の様相を呈している。まぁ、それすら野放し状態でやりたい放題にしている行政にはもっと問題がありそうだけど。話をもとに戻しましょう。家をがむしゃらに光りの嵐で包み込むこの季節、そんな家は最近建った住宅に多く見られる傾向な訳で、結局それって、ある種の家に対する夢だったりするんだろうな、あれがやりたくて家を建てたんだろうな、建て売り住宅など、プランはあまり自由にならなかったけど、クリスマスくらいは、その憧れを叶えたい、っていう感覚が爆発した結果という事になるのかしら。まぁ、それはそれでいいけど、ギンギンぎらぎらで他人に迷惑をかけるのはやめた方がいいし、ましてや、そうしておきながら自身の家の窓という窓、全てシャッター雨戸を降ろして閉鎖して寝るのは一体とういう事なの??結局、彼らも景観など興味は無く、単純なるイメージへの憧れと実現への執念、それと、見栄なのかなぁ。だって自分の家からは見えないんだから。雨戸を閉じちゃえば。

□2005.12.13top

 11日の日曜日、伊藤寛さんの設計された葉山の住宅のオープンハウスに伺いました。ここ数ヶ月の間、幾つかのオープンハウスのお誘いを頂きながら、全く体が空かない状況で伺う事が出来ず、とても残念な思いをしていましたので、僅かな時間でしたがとても有意義な時間を過ごす事が出来ました。誤解の無い様に説明を加えておくとすれば、我々の主催する「オープンハウス」というのは、巷で見かける客寄せイベントではなく、あくまで限定的なクライアント、もしくは学生、建築家仲間にのみ声をかけて行う場合がほとんどです。勿論、施主のプライバシーの問題を考慮しての事ですが、もう一つは、アカデミックな意味での建築批評を頂く事を目的としているからです。
さて、伊藤寛さんの住宅を実際に見るのははじめてでしたが、印象としては非常に「家」として必要なデザインを、恣意性を誇張する事なく素直に(これはセンスの必要な技ですが)まとめている部分は好感が持てるところでした。ともすれば、住まいとは何ら関係の無いデザイン性を誇張するあまり、とても肩のこる空間が跋扈する世の中ですから。空間ですが、正八角形の外枠に中に、設備を納めた四角い櫓の様な構造コアが挿入されたカタチ。通常の場合、幾何学形態はそのカタチ自体が非常に強い独立性を持ちますが、日本の木造文化に於いては四角という形態は見慣れたものとして、風景に馴染んで見えます。そこに来て、正八角形ともなれば私の経験ではテーマパークの仮設建築か、はたまたへんてこな展望台かといった、恣意性まる出しの環境破壊的建築物のイメージがどうしてもつきまといます。しかしながら、この住宅にその様な心配は無用でした。一つには黒の板金で覆われた控えめな出で立ちである事と、180度以上のパノラマが期待出来る高台のロケーションという事が、その形態に妙な説得力を持って迫ってきます。ただし、下手な建築家は、この様な手法に出ない事をおすすめします。不定形な敷地に多角形を挿入する事で、敷地の余白をどの様に意味を持たせるか、は偶然の閃きとでも言いましょうか、力のある建築家でなければうまく行くものではありません。内部空間では、とりわけ居間廻りが気に入りました。正八角形と四角形が入れ子構造になっている為、おのおのの出隅がズレて、そこに空間のクビレが生まれます。そこがこの住宅を単なるパノラマビューの居間と一線を画しているところでしょう。場をつくる手法も多々ある訳ですが、外観の出で立ちから構造コア、空間のクビレまで破綻を来す事なくスケールダウンしており、これでなくては、正八角形はやるべきではないな、と思いました。

□2005.11.15top

 今日、三島で地鎮祭に出席するために朝東海道線の電車に乗った。今日は今年一番かと思いたくなる位に冷え込んで、家を出て何気なく空気を吸ってそしてはいた。燐とした空気が辺りに立ちこめていて、空は灰色、天気はあまり良くは無かったが、雨が降らなければいいな、等と考えながら駅へ歩いた。東海道線は快調にぐんぐんとばして早川駅を過ぎた頃、パッと視線が開けた。ここのところ、定期的に湯河原での設計打ち合わせの為に東海道線下り列車に乗ることも多いから、それは見慣れた風景のはずだったのに、とても開放的で気持ちが良かった。
 ただ、訳もなく車窓から風景を眺めて「きもちいいな」という気持ちが起きるとき、そこには一体どんな法則があるのだろうか。そんな事を考えた事がむかしあった。たぶん建築を目指してひたすら徹夜を繰り返していた20台前半の頃の日曜の夕方、車に乗って246を海に向かって走っていた時だ。その時、空気はとても透けていた。スケスケだった。気持ちが解き放たれるとはこういう感じだろうな、と物思いにふけながら、たった週一回のわずか1時間だけの海を見るためだけに車を走らせた。
 早川を過ぎて、東海道線が相模湾を一望する場所にさしかかった頃、風景が透けていた。キリッと冷えた空気と、グレーで均一なんだけど微妙なグラデーションを描く水平線が、果てしなく見えないもっと向こうの世界へと心と解き放ってくれた。この湿度の低さからくる透明度の高さと、薄暗い空気のブラインド効果なのだろうか。均一なものにある種の幻覚を見た。そこには透明な物質が有るようだった。その透明な物質は目に見える全てのものを覆い被し、そしてグレーに染めてゆく。その風景はことごとく秩序から開放され、海と空が同化してゆく。色素を失ったモノトーンで均一な世界。そこは安らぎと心の秩序に満ちあふれていた。これから仕事だというのに・・・。

□2005.10.27top

 最近電車に頻繁に乗る。自分の会社を設立した当初は仕事もあまりなく、地元を中心としてこそこそとやっていたけど、とにかく最近は電車に乗る機会が増えた。茅ヶ崎くんだりから毎週学校の授業の為に東京に行くし、本業の打ち合わせとなれば、半分以上は県外だから、特急・新幹線・飛行機は当たり前になってきた。車を活用する人が少し地方に行くと(茅ヶ崎辺りもそう)とても増える。便利なのかな?と思うけど私は好きじゃない。理由は考え事とよそ見が多すぎて危ないから。だから助手席ならばよい。でも私の車(小さなイタリア車)は保険が30歳以上の制限付きだからスタッフには運転させられない。そもそも車を運転しながらいろいろ考え事が出来るとよく聞くけど、それは実は嘘じゃないかと私は思っている。いや、人によるのかな?他にも夢枕ですごい閃きがある、とか、そういう類のものもどうかな?と。私の場合は、その両方ともある時には閃きがあったり、有意義な思想を巡らしたり出来る事もあるけど、でもどっちも時間が経ってみると結局陳腐なアイデアである事が多いから使い物にならない事の方が多い。ならば、どうすればもっと有意義に移動時間を使えるかとなれば、それは本を読むか、考えた事をスケッチや文章に置き換えながら思考する事ではないかなと思っている。この方法は意外に確実だ。様々なアイデアやくだらない閃きを記録する事と考察する事が同時に行えるから、だめなものはだめなものとして割合すぐに気が付くから無駄がない。単に空想の世界をさまよっている事はどうも私には向いていない様だ。頭が悪いのかなぁ。単純な空間をふらふらを漂う事もどうも同じ様な気がしている。漂いながらその空間をすぐさまスケッチに降ろしてきて考察しないと、どうも気が済まない。と言うか、それ以上進めなくなる事が多い。そうだ、思い出した。私は中学生位から普通に勉強をはじめた頃、とにかく勉強机に座らないと何にも始まらない子供だった。これは不思議と自覚していたから良く覚えている。

□2005.10.13top

 やっとホームページのリニューアルが完了しました。最近は仕事の忙しさも手伝って、更新が年に数回という悲惨な状況でしたので、これを機会にキチンと運営していかねば、と思っているところなのですが、一つ気が付いた事が。今まで私が作成していたホームページ作成ソフトはアドビやIBMなのですが、今回はスタッフの藤井君がHTMLのコマンドを記述して作成しています。一体何がどうなの?そんな面倒くさい事してどうなるの?というのが私の率直な感想だったのですけど、よくよく聞いてみると、現在のHTMLを使用するホームページの場合はまだソフトがとても使いやすいとは言えない状況だそうで、(既に世の中はフラッシュへ移行しつつある・・・)いっそ、自分でプロンプト入力(プログラムを自分で記述する事?)してしまった方が思い通りになるのだそう。へぇ〜と思ったが、結局のところ、むか〜し昔(といっても12〜3年位前)Windows3・1が出た頃、その使い勝手の悪さから、MS-DOSを直接プロンプト記述して環境を整えていた方々にはWindowsが素直に受け入れられなかった状況を少し思い出しました。現在、WindowsXPを自分で分解改造して使っている様なヘビーユーザー(あくまでアマチュア)はあまりお目にかかれないし、いたとしても昔の様に「かっこいい〜」と尊敬の眼差しで見つめられる事もないと思われる。ホームページ作成の世界にも「ウェブデザイナー」という領域が出来て久しいけれども、もっと感覚的に直感的に色々な事が素人でも操作出来る様になれば面白いだろうなぁと思うし、きっと近い将来そうなると思った。

□2005.01.14top

 「soranokatachi」我が家の名前です。めでたく?テレビにも出ましたので、撮影裏話など少々・・。撮影は10月末だったのですが、ご存じの通り今年の秋は異常気象の為、晴天での撮影が夏からほとんど無かったそうです。その点では我が家の撮影日は雲一つない晴天。私も妻も晴れ女晴れ男ですが、ここまで晴れてくれるとは驚きました。
 撮影部隊が到着したのは朝8時30分。簡単に打ち合わせを行って、渡辺さんがいらっしゃったのは朝9時。ほとんど彼とは打ち合わせも何もなく、「ピンポーン」「お早う御座います!」といきなり撮影がスタート。ディレクターの宮本さん曰く、「出来るだけ初見での撮影を心がけています」との事。彼の驚きのコメントや、ソファでくつろぐポーズなどは、まったく素直な感想なのかもしれません。やらせと思っている方の多いでしょうが・・・・(笑)。渡辺さんとの撮影がお昼頃まで。初めて体験する空間をぐるぐる歩き回りながら、いろいろなコメントが面白おかしく出てくるあたり、さすがに役者だなぁと思わずにはいられませんが、おやじギャグも連発するので、一体どこまでまじめに付き合ってコメントするべきなのか分からなくなることもしばしば。場を和やかにして出演者をリラックスさせて住まい手の正直な感想などを引き出すのも彼の手腕という事なのでしょう。