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中野の家 竣工レポート

21.07.02

中野の家 竣工レポート

かれこれ一年近くなりますが、昨年の夏、まさにコロナ渦に竣工した中野の家をレポート致します。コロナの影響や外構植栽工事との関係から実はまだ竣工写真はなく今年の梅雨明けに撮影する予定ですので、一切のメディアで未発表となっています。まだ若く将来が期待されるクリエイターからの依頼で、acaaのOGである赤池友季子(赤池友季子建築研究所)と一緒に取り組んだ始めての住宅になりました。

この住宅の特徴は、二つの道に面した細長い旗竿地という点です。分かり易くいえば、竿の部分からアプローチして敷地を抜けた先に別の道があって、通り抜けが出来るということです。この点が面白くて活かそうと思ったのが始まりです。結果的には竿から始まり草花が咲き乱れる散策路が家とクロスし、そのまま奥の道へと抜けられる家ができました。一般的な庭の考え方とは異なり、散策路を移動しながら楽しむという点が特徴です。もちろん敷地には家が建ちますので、ちょうど敷地の中央付近で家と散策路がクロスするようにSの時に曲がった配置になっています。そしてクロスするところに向き合った縁側空間となっています。ここは2階がブリッジしているところですので、半戸外の中庭空間です。ここの縁側が玄関の役割も担っています。向き合った二つの縁側からそれぞれ屋内へ入れますので、様々な生活のシーンがイメージできますね。楽しそうです。

2階は散策路を反転したSの字の平面です。細長い敷地の特徴を活かすために長い屋内空間をつくりました。しかし長いだけでは空間が分節されず生活が困難ですので、acaaで過去に設計してきた曲がり屋シリーズと同様、空間の曲がり(見え隠れ)と床のステップ(高低差)によって長手方向を分節し、視線の抜けと同時にローカルな場所が発見されるよう、構造柱の位置や造り付け家具で尺度とプロポーションを制御しています。

設計中は想像すらしていなかったコロナ渦で、テレワークという事態に陥りましたが、子供を含めた家族の構成員がそれぞれ自由に場所を選び取り、様々な行為が展開される家の構成はacaaでは長年取り組んできた経験があります。それらは決して部屋数や家の規模で満たされることではなく、選び取られるかもしれない場所の多様性だけが求められています。そしてそれぞれの場所は、完全に分離したものではなく、何かしらの関係性が家全体の中で担保されていなければなりません。それは常に部分と全体が感じ取られる空間という矛盾した言い方によって計画されるものです。

初めて弊社にて面談させて頂いたときから、常に前向きで熱心なクライアントに導かれるかのごとく、設計から竣工まであっというまに駆け抜けた家でした。散策路の草花や樹木はまだまだこれからですが、月日とともに確実に、この家の特徴として生活に彩りを与えてくれると思います。ご依頼いただきありがとうございました!もう少し先になりますが、竣工写真が出来上がり次第、改めてホームページにて公開致します。

Column

21.07.02

前回に続いて本の読み方について思うことを書きます。まずどのようなカテゴリーであれ、ただ読むのではだめです。それを受動的な読み方ということも出来ますが、ぼんやりと眺めるような読み方です。例えば小説ならば味わうように、風景を眺めるように受け入れればよいではないかと言うことも出来ますが、目的によるのかもしれません。つまり、暇つぶしで読むのであればそれでOK。しかしまるで年輪や地層のごとく、その一冊、一頁、一行、あるいはその数秒が積み重なり、自分の実体としての人生に影響を与え、能動的に作用することを期待するのであれば、やはりそれではだめです。例えば夏目漱石の名著を数冊読んだとして、そこから現代にも通じる人間模様をあるある!と感じたとしてそれがどうしたというのでしょうか。まだまだ世界の中の田舎であった日本のその時代に、西洋から流れ込む思想と家族という集団の解体、そして剥き出しにされる個人が時を経て現代の都市住民に突きつけられているコミュニケーションの限界性、逆説的なSNSへの警告メッセージとして捉えることが出来るひとは、そもそも読み方が受動的ではないはずです。ましてや歴史物や啓蒙書の類いは、受動的に読む限りは何の役にもたたない本当の暇つぶしです。なぜならば、歴史を実体験した人はこの世に存在せず、一部の伝わっていること以外の大半、つまり分からないことを作家性で埋めた小説(みたいなもの)ですので、読む主体がその紡ぎ出された架空の風景をリアルに感じ取り、自らの生きてきた生活体験と重ね合わせ、まさにその時代を自らが生きている(かのような)感覚になることが、唯一歴史を引き受け、その歴史書を超えて自ら歴史を生きることに繋がるからです。それはつまり自らが歴史家になることと同じです。歴史書を有意義に読むとは、つまりそのように能動的でクリエイティブな行為なのです。啓蒙書などはもう説明するまでもありませんが、ただ外部に助けを求めて受動的に読んでも一切役に立たないです。苦悩や困難は外にあるのではなく自分の内部に存在します。他者の言うとおりに動いても要はその悩みを抱え込む生き方をしている自分は変化しませんので、結局は悩みが解決することはありません。本質的に能動的に生きるということは何なのか。それは自らの意思で行動することです。当たり前だとおっしゃるでしょう。でもここでもこの文章を軽く読み流さないで、深く読み込んで、理解して、行動に移すことが出来るひとがどのくらいいるのか?という具合に考えてみて下さい。最終的に行動に移すのは他者ではなく自分です。それは誰の責任でもなく自分自身の問題です。政治が、国家が、あるいは時代が、はたまた制度や会社や先生や親の責任ではなく、正真正銘の自分です。誰の責任にも出来ないその選択と行動を、選び取って生きてしまっている最終責任者は、そのひと自身ですからね。その能動的人生という本質を正しく理解しているひとは、後悔などする余地は残されていませんから幸せなはずです。全て自分の選び取った人生ですから。常に、誰かの責任に押しつけようとする都市住民の性癖、時に自分の人生すら外部の責任にしたがるひとは、生涯、悔やみ不幸な人生を歩むのではないでしょうか。そのために、より良く生きるために読書は必須だと思いますし、知識を得るためではない、能動的人生を誘発するチャンスとしての読書というものを親が子供に教えないといけません。