Column

13/02/15


少し前に茅ヶ崎の駅から事務所へ続くサザン通りに面して、割と大きなコミュニティーセンターと市立保育園を併設した建物が建ちました。設計者は私もよく存じ上げている方なのですが、実はその敷地の奧には傾斜した丘と森がありました。森のてっぺんには古い木造の公民館の様なものがあって、そこは足を踏み入れることが出来ない聖域の様な場所だと私は勝手に思い込んでいたものですから、あっという間にそこが無くなって、建物で全てが覆い尽くされたことがとてもショックでした。冷静に考えればこんなことは氷山の一角にすぎません。気が付けば、僕たちはどこまでも続く人為的行為である建造物のスプロール状態のまっただ中に居ます。どこまでも計画され、知り尽くされた世界の中にいます。何か不具合があれば、「誰かの責任」という逃げ場の無い、息が詰まりそうなほどに逃げ場のない場所に暮らしています。分かり易く言えば、人為的でない「分からない場所」が無くなりました。茅ヶ崎のその場所も無くなりました。僕はそんな場所を何気なく「裏」と呼んでいました。その裏がなくなったのです。どこまでも表。東京にちょっとした森があったとしましょう。そこに居ると森を感じますが、そのすぐ周囲には建造物が迫って来ていることをグーグルアースは暴きました。それを見た瞬間に、そこはもう森ではありません。森とは、本来、その向こうが分からないものなのです。何処までも続くかの様な、その奥行きがあって初めて裏なのです。昔から、日本では山を、その地形を背にして集落を形成してきました。そこには歴然と裏があり、その裏の存在が居を構える必然と安心感をもたらしました。僕たちは、今、何を頼りにここに居たらいいのだろう。

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