Column

14/04/18

朝の満員電車に乗っていてふと外を見ると、高架になった線路の下に公園があり、滑り台が置いてありました。よくある風景ですがどこかに違和感がありましたので、その印象がその日はずっと離れませんでした。どうしてでしょうか。

都市化に従って、建物は積層されて密度を高め、一方で道路や線路は立体交差になり、そのおかげでいろいろな人工物で一旦は埋め尽くされた大地が再度姿をあらわしました。存在するための権利をもう一度奪い返したかのように。でも、よく見ると、そこに子供は居ませんでした。まるで寒々とした、人を寄せ付けない空間の冷たさ?いや、その抑圧された圧倒的に弾圧的な、一方的な構築物の存在のためだけにうまれた、あくまで余剰空間。どう解釈しても人のために、子供たちのためにその空間が造られたとは思えません。

そこで思い出してみると、高速道路の下って何なのでしょう?積層した建物の1階が浮いていたとして(ピロティー)、そこは何なのでしょう。そもそも日本建築には半戸外の軒先空間、縁側空間というものがありました。そこは雨が降らない守られた場所です。気持ちのよい、いろいろな出来事が起きる場所です。そこと、高速道路の下は一体何が違うのでしょうか。。。 そんなこと、ぶつぶつ考えていたのですが、その公園で子供たちが遊んでいる風景とかを思い浮かべると、どうしても悲しくて、その切ない感じは一体何なのでしょう。私は建築の設計をしているわけですが、それは人のための建築のはずです。それなのに、都市はそうなっていない様です。よくよく見てみると、建築も同じでした。人のための建築はなかなかありませんね。都市も建築も構築する主体は人間なのに、その目的が別のところに向いてしまっているようです。スケールが間違っています。固すぎます。冷たすぎます。嘘をつき過ぎです。何よりも存在する根拠が人ではありません。別のものです。それは人が居る空間にはなり得ませんでした。残念です。茅ヶ崎の田舎で事務所を構え、都会に出かけるとそんなところばかりが目について、やたらと疲れます。。。

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