Column

15/07/02

建築に限らず、何かを創り出す行為は「無からの創造」と言われることがありますが、私はその言葉が昔から好きではなくて、なぜかと言うと「無からの創造」ではないからなのです。何かを生み出すにはさまざまな条件がつくわけで、それは音楽でも彫刻でも、まして建築に至っては条件だらけと言っても過言ではありません。それらの条件を一つ一つ満たしながら最後に見えてきた一つの風景すら、それはどこかでみた風景だったりします。私の場合はそれが夢で見た風景だったりもします。そんなことだから、勝手に手が動いている様にみえて、実は割と何かおぼろげながら、霧の向こうに霞んで見える一つの風景やカタチやそこにある光や影を手がかりとしていることは間違いありません。それは一つのフォルムを纏ってはいませんので、そのままリアルなカタチへとはいきません。その断片的と言うか、あるいははっきりとは見えないその映像に想像力の限界までリーチを延ばして力業でカタチを生み出している様な感覚です。ですから、第三者的にはまるで何にも無いところから一つのフォルムや空間が生まれて来る様に見えてしてしまうのかもしれませんね。ところで、例えば養老孟司が「論語は一切自然を語っていない」と述べ、意識(言葉)が先行する都市住民の思想の反映と説明している文章を何年も前に読んだ時には恥ずかしながらびっくりした記憶があります。なぜかと言いますと、論語を読んでも自然を語っていない、と普通は気が付かないからです。少々ややこしい話ですが、つまり知らないことはわかり得ないという事ですね。無からの創造ではありませんが、これはあらゆることに対して知の地平を拡張し、様々な視点で思考を繰り返すことによってのみなせる業であるはずです。私達の言葉で言いますと「気づき」ということなのです。「気づく」とは「発見」でもあります。発見は無からの創造ではないでしょうが、必ずしも過去に遡って全て理由が見つかるとも限りません。その中間なのです。もっと稚拙な言葉ですと「偶然」の一種です。意識的なものと無意識的なものの通態化は、その意味では偶然にして様々なことを引き起こします。それが本来的な意味での人生ですね。「感動」もその一種です。計画的に感動出来るひとはいませんから。人の意識の一瞬の隙をねらって、突然にして姿を現すその不思議な状況を茂木健一郎は「偶有性」といいますが、橋本治は「美しい」といいます。いずれにしても、設計という仕事の本質であることに違いはありません。

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